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武藤敬司 | 引退試合は内藤哲也、蝶野正洋戦の2連戦へ | 蝶野正洋「武藤さんらしい」 内藤哲也「こんな幸せなプロレスラーいない」棚橋弘至「武藤さんがいたから僕がいる」 | 武藤敬司「幸せなプロレス生活だった」

武藤敬司の引退試合は内藤哲也、蝶野正洋戦の2連戦

“プロレスリングマスター”武藤敬司(60)のラストマッチに指名された新日本プロレスの内藤哲也(40)が勝利した。ドラゴンスクリュー、背後からのシャイニングウィザードなど、満身創痍(そうい)の相手を攻め続けた。最後は必殺技のデスティーノで3カウントを決めた。

内藤は試合後、思いを口にした。

内藤 俺は武藤敬司選手に憧れて、武藤敬司選手を目指して、新日本プロレスに入って、プロレスラーになった。今日、引退試合だったけど、でも、試合終了のゴングが鳴るまで、武藤敬司選手の勝利への執念を感じた。心打たれるものがあった。

本当に引退試合に指名されて、うれしくないわけがない。こんな幸せなプロレスラー他にはいない。1分1秒を大切にしたかった。自分も武藤選手みたいに、こうやって惜しまれながら最後を迎えたい。そう思ったね。

明日、来週、来年、10年、30年後なのか分からないけど、また明日から戦いは続きますから。体休まる暇はない。明日は高松大会で待ってるよ。アディオス。

 

「やり残したことがある」「闘魂三銃士」の同期、蝶野正洋とサプライズマッチ

ラストマッチの相手に指名した新日本プロレスの内藤哲也(40)と対戦し、28分58秒にデスティーノ(変形リバースDDT)を決められて敗戦。

メインイベントで内藤のデスティーノを浴びてフォール負けを喫した後、マイクを握った武藤は「まだ自分で歩いて帰れるし、自分もエネルギーも残ってるし、まだ灰になってもいねえや」と完全燃焼していないことを明かした。そして、その上でサプライズで「やりたいことが一つあるんだよな、蝶野! 俺と戦え!」

1歳年上の同期、武藤の呼びかけに応じ、ゲスト解説の蝶野が引退マッチ2戦目の対戦相手を務めた。武藤から「蝶野! 俺と戦え!」と指名され、つえを持ってリングイン。脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)で8年以上も試合から遠ざかっていたが、元レフェリーのタイガー服部氏のもとでシングル対戦。

リングサイドで観戦していたレジェンドのレフェリー、タイガー服部氏に「服部さん(レフェリーで)たたいて」と呼びかけると、脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)で8年以上試合から遠ざかっていた蝶野も決意を固めた表情でつえをもって立ち上がりリングイン。両者ともにデビュー戦の相手がリングで対峙(たいじ)し、新日本時代からのライバル同士がファイトした。

両者のロックアップから試合が開始されると、蝶野の往年の得意技シャイニングケンカキックをもろに浴び、さらにSTFを逃げられず、武藤はギブアップ負け。最後は抱擁でサプライズの引退マッチを終えた武藤は「あいつ(蝶野)と最後にやりたかった。動けていたね」と最後に戦ってくれた永遠のライバルに感謝していた。

黒い私服のままロックアップし、シャイニングケンカキックで倒すと必殺技のSTFで絞めてギブアップを奪った。蝶野は「オレのSTFはちゃんときまってなかった。何でギブアップしたんだろう。引退試合で2敗するなんて武藤さんらしい」と口にした。

武藤敬司「幸せなプロレス生活だった」

武藤が、東京ドームの中心で大の字になっていた。「広いなぁ。天井は…」。長い長い旅路の果て。不思議とさみしさはなかった。公言通りの完全燃焼。「ゴールできてよかった。多くのレスラーが引退試合できていない中で、本当に俺は幸せなプロレス生活だった」と振り返った。

自ら最後の対戦相手に指名した内藤と、11年ぶりの一騎打ちで魂をぶつけあった。デスティーノで3カウントを奪われ、現役引退…。かと思われたが、「まだ灰になってねぇ」と言い放った。「やりたいことが一つある。蝶野! 俺と戦え!」。解説に駆けつけた「闘魂三銃士」の同期、蝶野をリングに呼び込み、サプライズマッチを実現させた。STFでギブアップ負けを喫し、前代未聞の引退試合2連敗。“プロレスリングマスター”が、最高のアートを完成させた。

かつてジュニアヘビー級並みの空中殺法と、規格外のパワーを誇った姿は、そこにはない。内藤戦で2度挑戦する姿勢を見せた月面水爆は、ロープに足を掛けるたびに苦悶(くもん)の表情を浮かべて中断した。だが、ドラゴンスクリューやシャイニング・ウィザードを意地で乱れ打ち、足4の字固めで追い込んだ。「闘魂三銃士」の盟友、橋本さんのけさ斬りチョップ→DDT、ライバル三沢さんのエメラルドフロウジョンも決めた。引退試合ができなかった仲間たちの分まで、全身全霊をささげた。

とっくに限界を超えていた。引退の原因となった股関節や腰の痛み。さらには、先月末の化身グレート・ムタとして負った両足大腿(だいたい)部の肉離れは全治6週間だった。それでも「レスラーはヒーローじゃないといけない」。死力を尽くしてたどり着いた最後の大戦を終え、「自分の足で帰れた」と笑った。

生活の中心にあるのは常にプロレス。午前9時のジムのオープンに備え、朝食の消化時間を逆算。午前5時に起床し、メニューはもちろん量も1グラム単位で決められた朝食をとる。就寝もトイレに行くことでさえも、決められた時間に行う徹底ぶり。「天才は努力なしで何でもできること。俺は見えないところで努力してんだよ」。寝ても覚めても-。その言葉を地でいく、努力の天才だった。

武藤敬司の世代

新日本の同期だった蝶野正洋、橋本真也の3人で闘魂三銃士を結成。

武藤は蝶野がデビュー戦の相手で30試合以上、橋本とも10試合以上もシングルで対戦。同期の友情と世代交代で一致団結し、90年代後半、IWGPヘビー級王座を懸けて激突。

武藤、蝶野のnWoジャパンは人気を博した。武藤が全日本、橋本がゼロワンに所属しても関係は良好だったが、05年に橋本が急死した。三銃士と同時期で全日本で人気だった四天王(三沢光晴、田上明、川田利明、小橋建太)と比較された。

武藤は川田とシングル戦、小橋ともタッグ戦を経験したが、待望されたのは三沢との天才対決だった。04年にタッグ戦で激突し、シングル対決の機運も高まったが、09年6月、三沢の死去で実現しなかった。

 

棚橋弘至、放送席で思わず嗚咽「本当に感謝」

解説を務めた新日本の棚橋弘至は試合前から「寂しいです。ファンの時代から武藤さんを追いかけてきた。東京ドームでIWGPヘビー級王座をかけて戦うこともできた。武藤さんがいたからこそプロレスが好きになった」と感慨深げだった。

試合後、武藤がリングを去ると放送席で泣きじゃくりながら「本当に感謝の気持ちしかない。武藤さんがプロレスラーになってくれたから、その中継を見て、プロレスラーになろうと思って、今、僕がここにいる。でも、やっぱり寂しいですね。本当に心からありがとうございましたと言いたいです」と涙声で武藤に感謝の思いを伝えた。

武藤敬司 愛妻・久恵さんからのLOVE

パパ、長い間本当にお疲れさまでした。

私は結婚してからの約31年間、ずっとあなたの痛みとの闘いを見て過ごしてきました。でもあなたはその間ずっと「武藤敬司-プロレス=0」になってしまうのではないかと思うほど、毎日毎日プロレスのことを考えていましたね。

プロレスラーとして常にベストを尽くして、朝起きてから夜眠るまで、ご飯の時間も内容も全て常に毎日ルーティンを守って生活している姿は、いつも尊敬の気持ちで一杯でした。

新婚旅行でハワイに行った時も、日光が出ている間はプールサイドで日焼け。あおむけの時間とうつぶせの時間もキチンと計算して、試合に備えてキレイに日焼けしている姿を見て、プロとしてさすがだと思いました。そしてその後に一緒にトレーニングに行き、すっかり夜も更けてやっているお店がなくなり、夕飯はハワイなのに牛丼屋さんになりましたね。懐かしい思い出です。

「久恵さんと結婚したいです!」と、私の両親にあいさつをしに来てくれましたね。「久恵さんは新弟子よりも良く気が利くので助かります」と言って、母からは「うちの娘は新弟子ではありませんから、大切にしてあげて下さい」と、父からは「君はキレイな目をしてるね。信じられる」という言葉を掛けられました。すると、そこであなたは「はい! 俺は信じられる人間です!」と自画自賛。みんなで爆笑したこと、覚えていますか?

膝のケガでだんだん子供たちと外で遊ぶことさえ出来なくなってしまったことは、寂しかったと思います。本当は人一倍歩いたり走ったりすることが大好きな人ですから。

でも子供達にとってずっといい父親で居てくれました。

2000年の夏頃から半年間、息子が3歳半、娘が生後3カ月の頃からアトランタで一緒に過ごした日々は貴重な時間でした。

WCWの興行に参戦するために渡米したのにマッチメーカーが人種差別の強い人にバトンタッチしたため、試合が余り組まれなくなった時期です。全てにおいて前向きに考えるあなたは、それまでずっと忙しく過ごしてきたので、家族との時間ができたことを喜び、リラックスタイムを楽しみました。だから娘が初めて立ったり歩いたりしたのもその目で見られましたね。

その年末に日本で猪木ボンバイエの出場が決まり、帰国する直前にアメリカで私がバリカンで頭を剃り、丸刈りになりました。初披露した時は、皆さんとても驚いたことと思いますが、もっと驚いたのは剃っている場面を偶然見てしまった息子でした。

「悪いことをしたら、お前もこうするぞ!」。あなたが冗談を言ったら泣いてしまい、その顔を見て二人で笑いましたね。

昨日でプロレスラー武藤敬司は引退しましたが、きっとあなたのことだからこれからもトレーニングを続けて、また何か新しい挑戦をすることでしょう。だから私はずっと身近で支えていきたいと思います。

武藤久恵

武藤久恵(むとう・ひさえ)1963年(昭38)6月24日、東京都杉並区生まれ。92年に武藤と結婚。子供は1男1女。